端島(軍艦島)沿革

「軍艦島」とは、長崎港より西南18kmの海上に浮かぶ孤島 端島に冠せられた通称である。
明治23年(1891年)より昭和49年(1969年)の閉山まで、三菱社の経営によって 84年の長期にわったって、主として 八幡製鉄所に向け良質の製鉄用原料炭を供給し続け、我が国の近代工業化を文字どうり下から支えてきた。海底炭鉱の島である。
南北約480m 東西約160m 面積にして およそ6.3ha のこの小島の直下垂直1.000mを超える深海底に数kuの広大な鉱区を抱え 最盛期には、41万トンを超える出炭をみた。
 当初、それは洋上の一岩礁のしかすぎなかったが 採掘技術の発達とともに 鉱区が拡張されるに伴い 島の周辺を ズリ で埋め立てながら 沿岸堤防の拡張を繰り返し、拡大形成されていった。

 炭鉱の開発と並んで、そこで働く人々のための住宅群の建設が盛んに行われ、特に大正5年(1950年)以降、当時の日本ではまだ実験的段階であった鉄筋コンクリート構造の 高層アパートが次々に建てられていく
 昭和20年の敗戦をはさむほぼ10年間は 日本の近代建築史上の空白の時代と言われているが その厳しい時代にさえ、途切れることなく建設が続けられた。
 結果、最終的には 50棟に近い建築郡が ジャングルジムのように林立し、さながら軍艦のような外観を見せる人工の島を形成するに至った。最盛期の昭和30年ごろには、島内の居住者が5.300人を超え、1ha当たり1.400人を超す 世界でもまれにみる、超高密度人口を擁していた。

 昭和30年代 後半より、石炭から石油への エネルギー転換政策のもとで、次第に合理化の波による緊縮化が進み、昭和49年1月、ついに炭鉱の幕を閉じ、同年4月以降は 全くの無人島として 放置されている。

 この島には 会社ぐるみの 地縁的共同社会の存在がみられ、空間的には 「ゆりかごから墓場まで」 小規模ながらも 生活に必要な あらゆる共同施設が立体的に組み込まれており、島内だけで 完結した一つの都市空間が凝縮されて 形成されていた。

 この島の歴史や様相はあらゆる意味で 日本列島の縮図といえる 性格を示している。